Virtual Beingsという名前に、救われるかもしれない存在達の話。
——現実のアイドルが、普通の女の子に戻るように。VTuberを引退した先に、フツウの存在を表す言葉があって、それが全てのVTuberの選択肢として存在するような——
・はじめに
お久しぶりです。鷲見イスミです。
しばらく離れたり、年末に戻ってきたり、私自身の腰の重さもあって記事を書き上げる熱量がなかなか生まれないまま、前の記事から8ヶ月……。
つい先日目に飛び込んできたVirtual Beingsという単語と、ぞくぞくと湧いてきた想像達、それらに強烈に背中を押されて、筆を走らせています。
新しい言葉が上位レイヤーとなり、今の言葉や存在をすっぽりと内包できたとしたら。
そのことで、どれだけの人が救われるのでしょうか。
今回はそんな、いつかの未来の話にお付き合い頂ければ幸いです♡
・バーチャルYoutuber という単語の功績と、拭えない違和感の話。
それでもバーチャルYoutuberという言葉は間違いなく、偉大なものです。それは、素のままでは世に出なかったかもしれない才能、新しいことに飛びつける嗅覚を持った才能、誰かと交わることで良さが滲み出るような才能……てんでばらばらの文化をたった一つの単語のもとにまとめあげ、一つの文化圏として今なお目映いばかりの煌めきを保ち続けているからです。
言葉の意味は世論によって変わっていくものですから、VTuberたちの配信先がMirrativだったりSHOWROOMだったりOpenRecだったりしても、その意味は時間とともに徐々に薄れています。
ただし、Youtuberに焦点をあてるとなると話は少し変わってきます。そこに動画投稿と、その内容、頻度、エンタメ性、あるべき姿ともいう感覚が生まれてしまうから。Youtuber的活動をする責務と言い換えたり、もしくはupd8の提唱するバーチャルタレントという単語と見比べてみてもいいでしょう。バーチャルYoutuberとして、何をすべきなのか。この単語と向き合うことそのものが、今日も何処かで誰かを悩ませ続けています。
もしも、先をひた走っていた偉大なカリスマたちと、後から追っていった個人企業の果敢な努力が存在した平行世界があったとしても、この呼称が存在しなかったとしたら、今のような連帯感もごった煮感も成長速度もあり得なかったでしょう。界隈を繋ぎ支えているバーチャルYoutuberという単語の功績。それ故に、簡単に代わりの言葉で振り切ることのできない名前。
Virtual Youtuberは、必ずしも“バーチャルなユーチューバー”ではないながら、“バーチャルユーチューバー”という単語に新しい意味を内包し続けながら、今もがむしゃらに走り続けているのです。
・Virtual Beingsの響きに、ときめいた話。
Virtual Beingsという単語が日本に上陸して一週間。その元来の意味と一連の流れは、以下のリンクからが分かりやすく、とても詳しいです。
この記事から数日、今ではこの
1.Virtual Beings の魂はAI
という発祥元の意味を踏まえつつも、ここ日本でのVTuberたちや、もっと広い存在も表せる言葉に変わっていけるのか、という議論が尽きません。
一つ上のレイヤーを表す単語として、バーチャルタレント、バーチャルライバー、Vの者などの言葉が既にあります。それとは別の次元で私がこの単語に惹かれたのには、日本人の心理として、自分たちが編み出すよりも外から名前をつけてくれる方が定着しやすいんじゃないかということと、シンプルにHuman BeingsとVirtual Beingsの対比が美しい、という2つの理由があったからです。
なので、いよいよ本題。
Virtual Beingsという単語がVTuberをも内包して広く浸透した世界があったとして、
- ①どんな新しい存在がバーチャル世界に産まれ
- ②逆にVTuberという単語は何を差すようになり
- ③誰がこの言葉によって救われる(かもしれない)のか
その3つを、順を追って想像してみましょう。
①スポットライトを浴びるかもしれない存在に、夢を馳せる。
誰でもVTuberになれる世界は既に到来してしまっています。身体を作り、声を変え、トラッキングをして、配信をしたり動画を投稿したり。それらがスマホひとつでできるようになり、しばらく経ち。Twitterのアイコンひとつとっても、3D2D問わず無限×無限通りの組み合わせで自分の“好き”を表現できるようになっていて。
VRChatで過ごし自分を表現する人たちも日々増え続け、進化し続けています。また別のところでは、1年前では考えられなかったような中の人をタブーとせず現実と仮想空間を自由に行き来する人たちも少しずつ見られるようになっていませんか?
Virtual Beingsという言葉が浸透したとしたら、そういう動画を投稿しないだけのバーチャルな存在にカテゴリが与えられることになるんです。
あくまでVTuberは動画/配信/チャンネルありきの存在でしたが、Virtual Beingsという上位の単語がその高い高い壁を取っ払ったとき、そこにはもっともっと多くの才能、好きを形にしたい層が、同じ呼称のもとひとつの連帯感を持てるようになる。
片方がVTuberとして動画を投稿し、もう片方はそれを楽しみ、感想を言い、ファンとして交流し、ファンアートを描き、あるいは記事を綴る——そんな両者が同じバーチャルな存在としてフラットに存在し、交わったり交わらなかったりする。
誰でも成れる時代が到来しつつあるからこそ、その動画投稿という大前提が崩れたときに、ただVTuberになることだけを尻込みしている表現者達やファン達を、同じステージに引き上げてくれるのでは、と思うのです。
②その時VTuberは、どんな役割を担っていくのか。
さて。VTuberという単語に課せられていた、バーチャルな存在全てを表せ!という肩の荷が下ろされた時、この言葉はどんな意味に変わっていくのでしょうか。
これに関しては先ほどの引用記事から
2.Virtual Beingsが行う仕事はVTuber的なタレント業に限らない
の裏返しを考えながら、想像していきましょう。
Virtual Beingsがタレント業以外の機会、業種、活動、あるいは単純なファンを内包して広まっていくとしたら、その流れに反比例するように、VTuberのバラエティ的、エンターテイナー的価値が高まっていく。
つまり、現実世界で言う、芸能人、タレントなどの言葉から受けるような感覚が強くなっていく。さらに、自己申告制の流れが強まったり、目指すべきエンターテイメント性が定まって、団結力が今以上に高まるかもしれません。
水面が下がれば山々が際立つように、バーチャルの裾野が広がることで、VTuberを名乗る/名乗ろうとする人たちの努力が、その名乗りそのものから見えるようになったら、素敵ではありませんか?そしてその潮流とは別のところで、バーチャルアーティストであったり、バーチャルシンガーであったり、もっと別の、自分の活動を端的に表す名前——そんな“山々”が、同じ地続きの平野の中で顔を出すようになったり。
バーチャルYoutuber=Youtuber、あるいは動画投稿者/配信者としてクオリティを追求し、日々視聴者を楽しませていく。そんな存在達を表すような単語へと、分かり易く洗練されていく、そんな未来を夢想します。
③Virtual Beings という呼び方は、誰を救うのか。
前述したのは、今後バーチャルな存在になっていく新しい層と、今後さらにタレント性を高めていく層。そこにもうひとつ、Virtual Beingsが産む新たな需要があります。
それは、VTuberであることに疲れてしまった人たちを軽々と救うのでは、と、思いついてしまいました。
何かの才能を抱え、それをユーチューバーという方法で売り込んでいったとして、性格、頻度、クオリティ、すべてがうまく合致するわけではありません。もちろん今でもなおVTuberであることは大きな宣伝になりますし、大波に乗ったからこそ陽の目を見た存在を、何人も見てきました。
でも、もし、何らかの理由でその大波に乗ることに疲れてしまったら。
あるVTuberが動画投稿を止め、Twitterの更新を止めたとしたら、周囲の人にはもうその存在を観測することはできません。残酷に言えば、Twitterの更新が永遠に止まることは存在そのものの死と同じです。芸能界を引退したら普通の人として生きていくのに、VTuberを引退したら、存在が見え無くなってしまうって、なんだか不公平じゃありませんか?……なので。
バーチャルである、ということに、名前を付けませんか?
歌を歌ったり、絵を描いたり、遊び場を提供したり、グループをプロデュースしたり、番組のディレクターになったり。そういう活動を、バーチャル世界でバーチャルの身体を纏って行う、あるいは、現実の体を堂々と持ちながらバーチャルにもちょろっと籍を置く。そして、そんな存在にVirtual Beingsという名前がつく。時たま、VTuber的活動をするけど、また疲れたら戻ってきて、引退したけどコラボにお邪魔して……動画投稿という無言のハードルが消え、Virtual Beingsという大きな大きな受け皿が現れたとき、表現者たちがのびのびと気楽に自分を表せる世界が来るのではないでしょうか。
動画投稿という表現方法=VTuber/バーチャルタレントという方法が、存在非存在の基準ではなく、あくまで宣伝や表現の手段になる。広い裾野を持つ言葉が産まれるということはそれだけで、表現者達の息苦しさを取り除くのではないか、と。そんなことを考えてしまいます。
・終わりに
熱に浮かされるように、駆け抜けてきたこの記事。
名前が産まれるとは、そこに帰属意識を産むということ。VRCで過ごす、コメントをする、Twitterで呟く、ファンアートを描く、ブログを書き殴る……そんな自分のカテゴリを正しく認識する前と後では、その自分の表現に対する自信と楽しさが何倍にも膨れ上がる。それが、呼称の持つパワーです。
既にバーチャルYoutuberの枠をはみ出して活動する存在、逆にはみ出しているが故に帰属意識を持てない存在。Virtual Beings(あるいは、この先に産まれる新しい呼称かもしれませんが)、という言葉が、そんな存在を包み込んで救い上げるようになったら。
様々な理由で去っていった、あるいは活動休止に入っていく彼女達に、幾許かの安心感を与えられるんじゃないか、と、そう信じています。信念をもとに道を違えていく彼女達が、ふらっと帰ってくる先。そこが確かに、広い広い懐の中にある、みんなと同じ世界でありますように。
Virtual Beingsという、大きく広がる新しい表現の世界への、緩やかな変化——それを願ってやまないのです。
以上、お久しぶりでした。鷲見イスミでした♡